「あのね、ワユさん」
 その声で、寝呆けていたワユも現に戻ったのか、扉の幅を広げる。この砦内で、彼女を訪ねて来る者などグレイル庸兵団の団員しかいないのだが、長年の流れの傭兵生活が彼女にそうさせているのだろう。
「キルロイさん、どうしたの?」
 こんな所じゃなんだし、とワユは扉を大きく開いてキルロイを促した。
 相手が自分だと、こんなにも気を許してくれるのか。驚きでもあり、嬉しさもあり、もしかして異性と見られていないのではないかという不安。それらが全て同時にせめぎ合う。だが、それを表に出すまいと心臓を宥めすかしながら細い背中の後を追う。
 
 ワユの部屋は、予想していた通りに簡素なものだった。もっとも、部屋の造りはキルロイのそれと同じで、違うのは剣が一本無造作に立てかけてあるだけだった。
 先刻まで横になっていたであろう寝台に、ワユは腰かける。固い寝台は、ワユの身体を弾ませる事なく、敷布により濃い影を落とすだけだった。

「それで、どうしたの?」
 闇夜に目が慣れてかなりの時間が経っている。それでもはっきりとは見えないワユの大きな瞳が、己の姿を映しているのは知っていた。
 改めて思えば、彼女はあどけない。
 実際いくつなのかは知らないが、出会って三年経ってもまだ少女だと言える容姿を持っていた。だが、傭兵としての処世術はしっかりと備わっているのだ。自分の事も、他人の事に対しても大雑把過ぎる性格は危なげに見えて、実は上手く世の中を渡って来た秘訣なのだろう。自分などよりも、ずっとしっかりしているとキルロイは思う。

 だから、そんな彼女とは釣り合わないと思っていた。自分で切り拓く運命。それを今まで実感してこなかったのだ。
 生まれつき病弱で、生き延びると言うより冥府からの迎えが延びただけだった。何とか成長してからも、傭兵の叔父に憧れるまま時が流れ、偶然にティアマトに出会い傭兵になる事ができた。所詮は偶然なのだ。幾多の戦場に出ても止まない高熱の波。それを乗り越えてきたのも、偶然の一部なのかもしれない。
 
「あのね、ワユさん」
 三年寝食をともにし、彼女だってキルロイの事を知ってくれていたはずだ。熱を出して寝込む彼を看てくれた時もあった。剣を両手にやって来た時も、キルロイは熱を理由に断ってきた。剣はどうあれ、それがどんなに情けないか、キルロイ自信身に染みていた。呆れられているのではないかと落胆した時もあった。けれど、それがひっくり返ってしまったのだ。昼間。
 昼間、また言ってくれたよね。ぼくを運命の人って。
 気付いてしまったのだ。己の本心に。病弱な事実は覆されない。この先の人生の保障など、他の誰よりもか細いのは変わりない。ぐらついた橋を渡り続けながら、逃げてきたのだ。あらゆる事に。それはあまりにも弱すぎる。弱すぎたのだ。
 
 だからもう逃げない。
 そう決めて、部屋を出たはずだ。その決心を思い出し、後ろ出にしていた右手を差し出す。じっとキルロイを見つめていたワユが、不思議そうにキルロイと彼の右手を往復している。
「受けて立つよ。昼間の事」
 三年前、運命のライバルと言って剣の勝負を挑んできたのだ。その時、剣など振るえないと言って断った。あれから幾度かの誘いがあったが、それをすべてかわしていた。それではいけない。そうぼんやりと悩み続けて三年。昼間、またワユは言ったのだ。自分を運命の人と。
 ああ、ワユさん。まだぼくをそう思っていてくれたんだ。
 せり上がる感動を胸に、だが、同じくして生まれた迷いがずっと彼を悩ませてきた。しかし、もう決めた思いは揺らぐ事はなかった。
 
 キルロイの言葉を飲み込めないのか、ワユの視線は未だ変わらない往復を続けていた。普段ならそんな反応をされればうろたえてしまう彼だが、今は違う。胸を張ってワユに答えるのだ。
「勝負だワユさん」
 ぐい、と右手の手紙らしき折り畳まれたをさらに前に出し、無理ぐりにワユの手に押し込める。その勢いに押されたのか、さすがのワユも、曖昧な返事をしてそれを受け止める。おぼろげな月以外は明かりのない部屋。二重、三重に折られた紙には、几帳面な文字が並んでいるが、それをはっきりと確認できなかった。

「詳しい日時と場所はそこに書いてある。それじゃあ」
 きっと、背を伸ばして部屋を出ようとする。
 本来、挑戦を最初に持ち出した方が詳細を決めるのだが、そのような作法はキルロイの頭にはなかった。挑んだのも、挑戦を受けたのもこれで最初なのだから。
 ぼくにはぼくの戦い方がある。剣ではなく、それで彼女に挑むのだ。
 明かりの乏しい道を、行きとは違い、自信に満ち溢れた足取りで帰路につく。無論、足音で他の仲間を起こさぬよう注意を払うのも忘れない。
 だが、ワユの反応には全く気が向かれてはいなかった。寝台にうなだれるように座り、赤い顔で「馬鹿」と呟いているなど、想像もつかないだろう。


一つ前へ もういい

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