立夏の風に舞う定期便

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 ノックの音でぼくは起き上がった。涙が少しだけ出たの見つかるのが嫌で、扉をちょっとだけ開ける。そこにはボーレがいた。
「なに……?」
 ボーレだったら相手をする気にはなれない。さっさと扉を閉めてまたベッドに行こうかと思ったけど、ボーレの言葉にぼくはとびはねた。
「兄貴がタニス将軍と話つけてるみたいだ。こっそり見に行くぞ」
 のぞき見なんて良くないとは思ったけれど、指をくわえて待っているなんてできなかった。ぼくとボーレは足音をなるべく立てないように、そろりそろりと歩いて離れへ向かった。途中ですれ違ったティアマトさんが「何の練習?」と声をかけてきたけど、ぼくたちは口に人さし指を立てるだけだった。
 

 ボーレの言う通り、オスカーお兄ちゃんとタニス将軍は、天馬がつながれている離れの裏庭にいた。ぼくたちは離れのコケだらけの壁に隠れてそっと頭を出す。
「いいか。兄貴が何を言っても絶対に驚くんじゃねぇぞ」
 そんなの、ボーレに言われなくったってわかってるよ。
「タニス殿……実は、かねてよりお願いがありまして……」
 天馬の前で世間話をしていたみたいだけれど、急にお兄ちゃんがそう切り出した。「お願い?」天馬のたてがみをなでる手を止めて、タニス将軍は意外そうに言葉を繰り返す。いよいよだ。ボーレも緊張しているのがわかる。
「正直な所を申し上げますと、タニス殿と、弟達の間で私の考えは揺らいでいました。だから、毎月わざわざ遠くまで足を運んで下さるあなたに強く言えなかった」
 お兄ちゃんの選んだ事だから。ぼくはその言葉を言い聞かせてドキドキを押し込めようとしていた。
「ほう。それでは、考えが変わったと言う訳か」 
「変わったと言うか、前から考えていたというか……」
 壁についている手のひらが、汗で気持ち悪い。ついでにボーレの荒い息も耳障りだ。
「タニス殿、グレイル傭兵団へ来ませんか?」
 ぼくは声が出そうになるのを必死で抑えた。貴族であるタニス将軍がクリミアの小さな傭兵団へやって来る。それは一度は考えはしたものの、ぼくですら無理だと思った事だ。貴族や将軍という偉い身分を捨てて傭兵になる人なんて、うちの団長くらいだ。それが、人の立場を一番に考えるオスカーお兄ちゃんの口から出るなんて、耳を疑った。
「まじかよ兄貴。信じらんねぇ……」
 ボーレがぼくの頭上でつぶやいた。そうだよね。信じられないよね。でも、タニス将軍がいいというならそれでぼくは満足だ。だって、お兄ちゃんもタニス将軍もぼくの傍にいてくれる。離れているより、その方がずっといい。いつもむすっとしているから恐そうに見えるけど、本当は優しい人なんだ。きっとすぐに傭兵団のみんなも受け入れてくれるよ。
 当の本人達はそれからずっと黙ったままだった。タニス将軍なんて、顔を真っ赤にして口元を手で抑えている。怒っているのか、泣きそうなのかわからない。息を殺して二人を見ていたのだけれど、ずるり、と音がして急にぼくの視界がずれた。
「う、わっ」
 体重をかけすぎたのが悪かったのか、壁についた手が汗で滑ってしまった。ぼくは情けない声を上げて前のめりに倒れた。
「ヨファ?」
 お兄ちゃんとタニス将軍の驚いた顔が、ずっと上にあった。「えへへ」とぼくは愛想笑いでごまかそうとする。
「いやあ、たまたま近くを通りかかったもんで……ほら、ヨファ。行くぞ」
 ボーレがぼくを起こして足早に去ろうとした。慌ててぼくはボーレの後ろを追って走って行く。


「この、馬鹿!」
「いたっ」
 早足にみんなの部屋がある本館へ戻る途中、ぼくはボーレにげんこつを食らった。痛いけど、それをボーレに怒る気にはなれない。
「お兄ちゃん達、どうなるのかな……」
「知らねぇよ。ただ一つ言える事はな、兄貴は、はなっからベグニオンに行く気なんざこれっぽっちもなかったって事。で、気を揉んでたおれ達が馬鹿みたいだったって事!」
 言葉も荒く、ボーレは自分の部屋へ戻って行った。ばたん、と乱暴に扉が閉まったと同時に、ぼくは吹き出してしまった。だって、「兄貴の好きにさせてやれ」とか偉そうな事をぼくに言っておいて、ボーレもぼくと同じくらい、オスカーお兄ちゃんがベグニオンへ行くんじゃないかって心配していたんだよ。ボーレだって、じゅうぶん子どもじゃないか!



 もうだいぶ陽がくれて来た頃。ミストちゃんの手伝いをしようと食堂に向かったら、夕飯の準備をしていたのはオスカーお兄ちゃんだった。お兄ちゃんはぼくの方に一度顔を向けるも、すぐにジャガイモの山に視線を戻す。お兄ちゃんがベグニオンへは行かないとわかったのはうれしかったけど、ぼくたちはあんな事をしてしまったのだ。お兄ちゃんにいざ会うと、とても気まずい。
「皮を剥くのを手伝ってくれないか」
 いつもの穏やかな調子で、お兄ちゃんは言う。怒ってないのが嬉しくて、ぼくは飛ぶように調理場から小刀を取り、お兄ちゃんの近くに座った。でも、あの後の事を聞く事はできなかった。ぼくたちは黙って、一つ二つと、白いジャガイモを増やしていく。しばらくして、お兄ちゃんの溜め息が聞こえた。
「……覗き見は感心しないな」
「うん。ごめんなさない」
「どうせボーレが誘ったんだろう」
「そっ、そうだけど……でもボーレだけが悪いんじゃなくて、ぼくも、一人でも……」
 お兄ちゃんはやっぱり怒っていたのだ。もしかしたら、本当はタニス将軍からいい返事がもらえたはずが、ぼくのせいでダメになったのかもしれない。
「タニス殿はあれから何も言わずに帰られたよ」
 ほらやっぱり。タニス将軍は怒ったんだ。
「でもまだわからないぞ。タニス殿があんなに顔をされるのは、とても驚かれた証拠だからな。いつかきっと答えを持ってまたやって来るよ」
 お兄ちゃんは笑っていた。それにぼくは首を傾げてしまう。タニス将軍はお兄ちゃんの誘いに答えを出していない。答えを持ってまたやって来るとは、タニス将軍がまたこの砦へやって来るのだ。これじゃあ何も変わっていないじゃないか。それってつまり、今のままの関係でいいって事なのかな。
「でも、怒って来てくれないかもしれないよ」
「あの方は怒ってなんかないさ。絶対に来てくれる。私の申し出を断るにせよ、ね」
 「なにせあの方は律儀な人だから」と言うお兄ちゃんは何だかとても楽しそうで、意地悪そうに笑っていた。


 ぼくが思った通りだった。次の月。それがもうすぐ終わりを告げようとしても、タニス将軍は傭兵団の砦には来なかった。グレイル傭兵団はそれで何かが変わる事はないのだけれど。ぼくとボーレ以外の傭兵団のみんなは「とうとう諦めたか」としか思っていないのだろう。当のお兄ちゃんも「じっくり考えていらっしゃるのさ」とのんびりとしている。
 タニス将軍はベグニオンの聖天馬騎士団(最近覚えた)の二番目に偉い人で、ベグニオンの貴族さまでもある。よく考えれば考えるほど、やっぱりタニス将軍が傭兵団に来てくれるなんてとても変だ。ボーレも「可能性はないに等しい」って言い切っている。ちなみに、この話はぼくたち兄弟だけの秘密だ。
 律儀な人だから――お兄ちゃんはそう言っていた。リチギって、どんな小さな約束もちゃんと真面目に守ってくれる事でしょ。もしかしたら、あの後二人だけで何か約束したのかもしれない。それが何かぼくには考えつかないけれど。

 

 もうそろそろ本格的な夏がやってくる。空もこんなに濃くなってきた。ぼくはいつしか、白い雲の合間をじっとみ見るのがくせになっていた。今日は風が強いから、日差しも強いから天馬で出かけるのは大変だろうとか、そんな事を考えながら。
 ふと、何かがひらひらとしているのが見えた。軽いから風に乗ってゆらゆらしていて、捕まえるのが大変だったけど、何とか取れたそれは見覚えのある白い羽根だった。去年クリミアのお城で、タニス将軍達にお別れを言った時に拾った羽根によく似ていた。ああ、あれはタニス将軍の天馬だったんだ。
 

 雲の合間をぬって、雲みたいに白い天馬が舞い降りて来るのがはっきりとわかった。ぼくは迷った。本館にいるオスカーお兄ちゃんの所へ走って行こうか、それともいつもみたいに天馬の手綱を引こうか。だって、今外にいるのはぼくだけで、前からぼくも言ってみたかったんだ。「お兄ちゃん、『定期便』だよ」って。


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